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江戸時代の国有林「御林」

(写真:ミニ西国三十三所)

猪名川町の豊かな自然の源である森林は、町域面積の80パーセントを占めています。町域の木材は、奈良時代には木津(楊津:やないづ)を中継地として下流の伊丹へ運ばれ、猪名部(いなべ)という木工集団によって加工され、朝廷に納められていました。槻並は匠の村として有名で、肝川の戸隠神社の棟札にも名前が出ており、江戸時代に書かれた山林管理に関する取り決めの文書も多く残されています。また、鎌倉には江戸時代「御林(おはやし)」と呼ばれた幕府の直轄林がありました。二条城や大坂城などの修復の際など幕府が材木を必要とした時に、切り出し、使用したものです。その管理は厳しく、秋のキノコの季節などでも「御林」に入るのは固く禁止されていました。 鎌倉の西の山、定星寺(じょうしょうじ)裏山には文久2年(1862年)の石仏群がまつられたミニ西国三十三所があります。

 

歴史と自然の宝庫「三草山」

御仏(みほとけ)が人々を救うため三本の薬草を持って現れたという三草山。この山は、阿古谷地区と能勢町長谷にまたがり、美しい雑木林を持ち、動植物の豊かな自然に恵まれています。また、様々な伝承にも包まれています。 元暦元年(1184)2月4日、源義経が一の谷への途中で「三草勢ぞろい」をした三草山は、通説では社町にある三草山とされています。しかし、清和源氏発祥の地、摂津国多田庄にあり、「平家物語」中の情景や、能勢町平通(ひらどおり)の地名は平家の通過によるものとの伝承などから、猪名川町の三草山であるという説もあります。 天正14年(1586)には多田院御家人筆頭の塩川氏と、能勢氏との最終決戦の舞台の一つとなり、4月17日の三草山方面戦では双方の戦死者百余人、負傷者約二百人が出ました。10月の戦いに続く12月には、豊 臣秀吉の命令もあって塩川氏は落城、共に戦った多田院御家人達も知行地(ちぎょうち)を失ったのです。

 

地質観察の宝庫

先日、丹波市の川岸に露出した白亜紀前期(中生代)の篠山層群での恐竜化石(1億2千万から1億4千万年前)の発見が報じられました。「人と自然の博物館」で行われた展示を見学された方も多いでしょう。猪名川町の最古の地層は約3億年前の石炭紀後期から二畳紀の2型丹波層群で、地表では町南東部で見られます。北西部ではそれを覆って白亜紀後期の有馬層群がみられ、町南部にはさらにそれらを覆う新生代の大阪層群(鮮新世から更新世。5百万年前から)が点在します。大部分のニュータウンの地表もこの大阪層群に属し、湖水域堆積物と考えられます。 以前万善で2万5千年前頃の姶良(あいら)火山(現鹿児島湾)の灰が発見されたように、町内には古生代から現代に続く地層があります。 川岸や屏風岩周辺では興味深い岩石が露出しています。安全に注意し崩落を招かないように観察してください。新発見があるかも知れません。