成立

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「中谷村」の成立1

明治22(1889)年6月12日、現猪名川町の南部にあたる中谷村に役場が設置されました。  明治政府は「大日本帝国憲法公布」「国会開設」に向けて整合的な地方制度の改正を行うため、ドイツの地方制度を参考に前年の明治21年4月に「市制町村制」を公布し、町域で同22年4月1日、北部に六瀬村が、南部には中谷村が誕生しました。
 中谷村は旧村の「広根村外6カ村と「紫合村外9カ村」が合併して成立しました。同24年の資料によれば前者戸数247戸、人口1327人、後者は378戸、2119人でした。
 役場吏員は、村会議員により選出された名誉職の村長・助役の他、収入役、書記3人、附属員1人、使丁(用務員)3人で「業務繁忙」、残業が多かったと報告されています。
 午後8時を過ぎる夜業には1賄料(6銭)、12時を過ぎれば2賄料が支給されました。

 

「中村村」の成立2

「中谷村」の名称は、西谷村(現宝塚市)、東谷村(現川西市)の間に村域があることから付けられました。  明治21(1888)年4月公布の市町村制では、戸数3百戸から5百戸(国の基準)に、兵庫県では7百戸を目安に、町村規模を拡大するよう町村合併が進められ、翌22年に中谷村は6百戸余で発足したのです。
 同21年9月に新村区域の原案ができた時、六瀬村所属となった槻並村と万善村は、六瀬村から中谷村へ所属変更希望を出しました。近世から明治13(1880)年までは紫合グループに属していたことなどが理由でしたが、認められませんでした。
 中谷村役場の組織は、選挙・統計・農事・学校・庶務・土木関係などを扱う「第一掛」、戸籍・兵役・衛生関係などの「第二掛」と、「収税掛」「収入役」に分けられていました。
 村会議員の定数は人口に準じて12人となり、それまでの議員数に比べごく少数となりました。
 町村の国政への関与は認められず、条例の制定・改廃に関する議決の施行には内務大臣の許可が、また、規則の改廃には郡参事会の許可が必要となりました。

 

「中村村」の成立3

「中谷村」の名称は、西谷村(現宝塚市)、東谷村(現川西市)の間に村域があることから付けられました。  明治21(1888)年4月公布の市町村制では、戸数3百戸から5百戸(国の基準)に、兵庫県では7百戸を目安に、町村規模を拡大するよう町村合併が進められ、翌22年に中谷村は6百戸余で発足したのです。
 同21年9月に新村区域の原案ができた時、六瀬村所属となった槻並村と万善村は、六瀬村から中谷村へ所属変更希望を出しました。近世から明治13(1880)年までは紫合グループに属していたことなどが理由でしたが、認められませんでした。
 中谷村役場の組織は、選挙・統計・農事・学校・庶務・土木関係などを扱う「第一掛」、戸籍・兵役・衛生関係などの「第二掛」と、「収税掛」「収入役」に分けられていました。
 村会議員の定数は人口に準じて12人となり、それまでの議員数に比べごく少数となりました。
 町村の国政への関与は認められず、条例の制定・改廃に関する議決の施行には内務大臣の許可が、また、規則の改廃には郡参事会の許可が必要となりました。