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猪名川町の特産

町のあちこちでたわわに実った栗がはじけています。栗拾い、椎茸狩り、いも掘りの楽しい季節となりました。新米、新そばももうすぐです。 猪名川町域には「三黒(炭、牛、栗)三白(米、酒、寒天)」と呼ばれた特産品がありました。現在では、栗、そば、椎茸・松茸が新「三黒」と呼べるでしょう。
江戸時代から、炭の多くは池田の問屋を通じ「池田炭」「菊炭」として全国に流通していました。名残りのクヌギ林は今、カブトムシやクワガタのゆりかごとなっています。
近代の栗栽培では、県下でも旧中谷村が突出しており、猪渕が最も盛んで、差組・肝川が続きました。大正初年から昭和16年の日米開戦までは「中谷栗」として北米へ高価格で輸出されていました。
今年大ブームの寒天は、近畿で唯一の古製法を守る阿古谷で高品質の物が作られ、冬季の天日干しは風物詩となっています。

 

木炭製造と炭団

(写真:現在の様子)

江戸時代の猪名川町は「銀山付村々」として、多田銀銅山で消費される食料や燃料を供給していました。 江戸時代後期には、江戸で塩原太助が木炭の粉に海藻を混ぜ固めた炭団を発明し大ブームとなりましたが、町内では製造の記録はありません。余剰木炭は池田の炭問屋を通じて「池田炭」として流通し、また京都へも販売されていました。
近代になって、大正5年の池田炭製造状況の記録では、製造戸数六瀬村30戸・中谷村28戸で、切炭5万貫を産出しています。これは東谷・西谷村を含めた4カ村の産出量の40パーセント超を占め、盛況だったことがわかります。 また、大正11年には笹尾に六瀬製炭株式会社が設立され、炭団の製造販売を昭和30年頃まで行いました。
昭和14年の兵庫県工場通覧には杤原に2軒、笹尾と仁頂寺に各1軒の炭団製造工場が掲載されています。
燃料革命によって木炭・炭団は家庭の日常から姿を消して行きました。

 

近代の産業「醤油」と「木炭」

昭和中期までは、農村部の特色である自給自足的生活の色合いが濃かった猪名川町域では、味噌・豆腐・緑茶などの自家生産も多く行われ、醤油を作る家もありました。  明治政府は明治4年(1871)醤油税を創設して醤油醸造業者に課税、同32年からは個人にも課税し、この醤油税は大正14(1925)年まで存続しました。
 『明治7年各区物産表(兵庫県)』では、中谷村2205円余、六瀬村120円余の醤油生産高がありますが、大正10年の『中谷村村勢要覧』には「大正2年以前ハ営業者ナシ」とあり、自家用の醸造高と推定されます。
 大正3年中谷村に村治醤油醸造が誕生、生産量は年々増加し、郡内の約4パーセントを生産していましたが、昭和8年(1933)には生産量6割減となり減産が続きます。他産醤油の進出が原因と思われます。
 近代の薪炭生産は前記『物産表』では町域林産物総額の約83パーセントを占め、中谷村が町域薪炭生産全額の約93パーセントを占めていました。
 大正5年には池田炭の産地東谷・西谷・中谷・六瀬の産額の40パーセント強を中谷・六瀬両村で産出しました。